家業

 私の父はちょうど私が生まれた頃に脱サラ(サラリーマンを辞めて自ら事業を始めること)し、果物屋を始めました。30店舗ほどからなる公認市場の一区画でシャッター3枚くらいの店幅だったと思います。それから約20年、私が大学生の時期まで続けましたので私はほぼ『果物屋の倅(せがれ)』として育ちました。

 3人姉弟の一人息子だったこともあり小学6年時にリトルリーグを卒団した時から店を手伝うようになりました。店と自宅は別々の町にありました。夕方から店に向かい、配達や店仕舞いをするのが私の役目でした。お盆や年末の繁忙期には終日手伝うことも多かったです。今思うと青春期の一部を失ったようにも思いますが、当時はそれが当たり前と思っていましたし子供ながらに家の事情や両親の苦労を感じていたのかも知れません。

 店があったのは高度経済成長期に建てられた何十棟もの団地や社宅、アパート(文化住宅と呼ばれていました)に囲まれた地域であり、その周りにぽつぽつと地主さんの屋敷と敷地20坪ほどの建売住宅がありました。これらの住人がお客さんであり実に多様な人と暮らしがありました。善い人もいれば悪い人もいましたし、人情もあれば騙し騙されもありました。裕福や貧困も入り乱れ子供には刺激の強い環境でした。

 印象に残る作業のひとつに掃除があります。市場には魚屋・八百屋・パン屋・電器屋いろんな店がありましたがどの店も一日の終わりにはきれいに掃除を行い、ゴミが落ちていることはありませんでした。店仕舞いを手伝う私も毎日店の前を掃いていました。やはり基本なんでしょう。私は今でも掃除や整理整頓をするとひと仕事終えた気がします。

 私は家業の手伝いによって青春期の一部を失ったかも知れません。しかし、これらの体験を通して生きていくために有益な知恵や知識が得られ、少なからず間違いを減らし助かってきたような気がしています。

ジョブ型雇用

 最近よく目にするワードです。業務内容を定義して雇用するスタイルで専門性を求められることが多いようです。ジョブ型雇用と対比して使われるのがメンバーシップ型雇用となります。私は典型的なメンバーシップ型雇用のもとで28年間の会社生活を過ごしてきました。そして昨年外資系企業にジョブ型雇用として転職しました。

 採用選考の過程において提示されるオファーレターには業務内容がしっかり書かれており、入社後も合意なしに変更されることは原則ありません。またオファーレターにある労働条件や処遇についても勝手に変更されることは原則ありません。良くも悪くも「やることやっていればお金がもらえる」わけです。

 欧州に本社を持つグローバルカンパニーであり、日本現地法人でありながらも日常的に海外数か国・国内数拠点と仕事をしているのでウェブミーティングをしても参加者の居場所はほとんど別々です。また社内はグローバルで統一されたシステム・規定で運営されているため、企業活動はまさに個々のジョブの集合体といったイメージになっています。

 とても合理的で会社も「やることさえやってくれればいい」と言っているように感じます。意欲的に働きたい人にもそうでない人にも納得感のある働き方のように感じます。日本ではこれまで馴染みがなかっただけで、コロナ禍もひとつのきっかけとなって今後加速して拡がっていくのではないかと思います。

初めての仕事

 初めての仕事が何であったか思い返してみました。ここでは対価としてお金をいただいた仕事とします。それは小学校の高学年の時でした。アルバイトというカテゴリーだと思います。

 それは野球のスコアをつける仕事でした。当時私はリトルリーグに加入しており、チームの役員からある大会のスコアラーの依頼を受けました。スコアブックに記録を取りながらスコアボードの操作、ヒット・エラー・フィールダースチョイスの判定もしました。賃金は1試合500円だったように覚えています。その日は4試合あり2,000円と交通費に加え、昼食のお弁当とお茶をいただきました。また連盟の刺繍が入ったシャツもいただき優越感を得た記憶があります。

 場所は大阪城公園内の野球場でした。私鉄と国鉄を乗り継いで行きました。昭和55年5月5日のことであり、切符には5555と印字されていました。それが嬉しく降車駅の駅員さんにお願いして切符を回収されずにいただいたことは何より覚えています。

 思い出となる初めての仕事でしたが小学生にとって大金であった2,000円をどう使ったのかは全く覚えていません。切符がその後どうなったかも記憶にありません。それよりも一人で電車で出かけ、連盟のユニフォームを着て、公式にプレーを判定し、記録を残すというという状況や行為そのものに満足感や達成感を抱き記憶に残されているように思います。

 就職してからもこの記憶と同じような感覚になる時があります。通勤・制服・責任ある仕事に置き換えられるということでしょうか。対価としての給与があるために労働しているのですが、実は活動全体に惹かれているのかも知れません。こういうことを働き甲斐というのでしょうかね。

テレワーク

 コロナ禍のおかげですっかりメジャーな言葉になりました。コロナが収まってもツールや使い方の進化は止まらず、むしろ加速していくのではないでしょうか。

 5年ほど前にアメリカに赴任していたことがあります。現地法人を運営する立場でした。国土が広く、ITも発達していて、何より合理的な社会ということもあってリモートが身近にありました。また自分のデスクや会社以外で仕事をする光景もよく見ました。

 初めは何事にも自由を求めているのかと思っていましたが、これらを活用する人達はほぼ生産性を上けていることに気づきました。アウトプットを増やす人もいれば新しいアイデアを創造する人もいました。より快適な環境を求める声も多くあり、就職条件のひとつとして考えられていたようです。当時会社の課題であった高い離職率を低減させるために環境整備に取り組んだこともあります。

 日本に帰任してもテレワークやリモートワークの推進をしましたがなかなか浸透しませんでした。どうもサボっているとみられるようです。しかしコロナのおかげで一躍ノーマルな働き方となってしまいました。浸透しない土壌でしたので、まだまだ無駄も多く、サボっている人もいるでしょう。しかし、これを機に生産性を上げる人が生まれ、会社も当たり前にそれを期待するようになると思います。

 働く環境を使いこなすことが専門性あるスキルを持つことより優先されるようになるかも知れません。

就活

 ちょうど30年前の今頃、工学部の4年生だった私は就職活動を始めていました。バブル経済崩壊後ではありましたがまだ名残があり、特に理系の学生とっては強い売り手市場が続いていました。活動といっても学科には学生数の何倍もの求人が届いており、学生達はその社名リストから希望の会社を選ぶのが一般的でした。リストには多くの有名企業が並び、工学系ではない会社もたくさんありました。会社を選択すると後に面接の案内があり、学校推薦として面接を受けて採用というプロセスでした。

 今のようなエントリーシートはもちろんなく、インターンシップもありませんでした。私の場合、技術面接と人事面接の2度の面接だけのシンプルなプロセスでした。私は面接に向けてたいした準備もせず当日もグズグズ、それでも合格しました。たぶん『出席=合格』ほどの売り手市場だったのだと思います。私は経験しませんでしたが学生を他社に奪われないように拘束旅行を催す会社もあるほどでした。今とは全く異なる状況です。

 就活という切り口だけで考えた時、このような就活環境を経て入社した人達と昨今の激烈なセレクションを勝ち抜いてきた人達が同じモチベーションで同じゴールを目指せるのか考えることがあります。能力の優劣という話ではなく何かギャップを感じます。会社内ではよく一丸となるべくスローガンが発せられますが、そもそも土台となる会社や仕事に対するメンタリティが極めて異なる気がします。

 就活は受験のように当事者でない時代のことはよく理解されていないように感じます。少し気にしてみるとそのぶんだけ理解し合えるのではないでしょうか。

仕事

 仕事とは?と問われると一瞬回答に困ったりしますが、気に入った例えがあります。それは『仕事とは穴を埋めるようなものだ』です。いつ、どこで見聞きしたのか覚えていませんが気持ち良く心に残っています。

 穴というのは道に開いた穴を想像しました。穴には大きなものや小さいもの、深いもの浅いもの、まん丸いものいびつなもの、いろいろあります。人はそれぞれ個性や能力に違いがあり、それぞれが能力を発揮して自分に見合った穴を埋める。力のある人は大きな穴を、特技のある人はいびつな穴を埋められるでしょう。時には何人か協力してとても大きな穴を埋めることもあるでしょう。その結果、みんなが安全に使える道が維持されます。会社や社会へのアウトプットとして繋がりが感じられます。

 自分に見合った穴に巡り合えるかどうかの心配はありますが、このように仕事を捉えると「これは自分が埋めるべき穴だ、頑張ろう」と思えてきます。若い頃は与えられる仕事が多く、自分の穴だと信じ込んで取り組んでいたように思います。上司に恵まれたのか、緊張感のあるチャレンジを経てやり切れることが多く、心地良い達成感がありました。

 少しずつ小さくなっても穴を埋め続けていたいと思います。

働く

 『働く』を検索するとおよそ7つの意味があるようです。

1 仕事をする・労働する、2 機能する・作用して結果が現れる、3 精神などが活動する、4 悪事をする、5 文法で用言や助動詞の語尾が変化する・活用する、6 動く・体を動かす、7 出撃して戦う

 1はまさに職業として、あるいは生計を維持するために一定の職に就くことで最もポピュラーな意味ではないでしょうか。私自身も1の意味でこれまで働いてきました。明確に定義していたわけではありませんが生計を維持し、家族を守ることが第一にあったように思います。どちらかというと自分のために働いていました。

 しかしながら50歳を過ぎたころから2の意味の『働く』を意識し始めたように感じています。またそれは漠然とですが3の意味の『働く』が機能したせいなのでしょう。自身の環境変化に伴い、これまでとは違う価値観で『働く』ことを捉え、誰かのためにという思いがあるようです。

 新しい『働く』を始めるにあたり、過去を振り返り・現在を見つめ・未来を考えたいと思います。