家庭教師3

 大学時代にアルバイトで家庭教師をしていました。今回は3件目の家庭について書きたいと思います。この家庭では1年程務めました。短大・大学までエスカレータ式に進学できる私立高校に通う女子高生でした。閑静な住宅街にあるお宅で、部屋には父親の趣味と思われるオーディオ機器とクラシックのレコードやCDがたくさんあり、とても上品に感じたお家でした。

 教え子の勉強意欲は1件目と同じく乏しく、学校からの帰宅が遅れ開始時間に間に合わないこともよくありました。指導中はつまらなさそうにしている一方、無駄話に付き合うととても楽しそうにしていました。「大学ってどんなとこ?楽しい?」と目を輝かせるなど典型的な私立女子高生という感じでした。指導の日は母親が家にいて話すこともありましたが成績には全く興味がなく、母子揃って形だけの家庭教師をつけているようでした。父親に対しての体裁だったのかも知れません。

 開始時間は放課後の明るい時間帯で、終わるころはちょうど早めの夕飯時でした。寮生活の私を気遣ってか毎回夕飯を用意してくれました。それは段々豪華になっていき『〇〇御膳』の様相でした。母親の前でいただくのですが、私が食べる様子を嬉しそうに見ている顔がとても印象に残っています。この家庭の子供は娘二人ということもあって息子を幻想していたのでしょう。

 私の大学卒業をもって終了しましたが、この家庭で指導や成績についてのクレームは一切ありませんでした。ここでも私の職業意識が低くて申し訳なかったと思うものの、この家庭では教え子の興味に付き合い、母親の〇〇御膳を元気良く食べることが私の役割だったように感じます。また母子ともに幸せそうで、それでよかったとも思っています。

 彼女はキャンパスライフを謳歌し、素敵な彼氏を見つけ、結婚して男の子を生み、母親は婿と孫がかわいくてかわいくて仕方がない。きっとそうなったと思います。そんな形の幸せが想像できる微笑ましい家庭でした。

創業一周年

 個人事業主となって一年が経ちました。夏に虫垂炎とその合併症で入院を余儀なくし、記念すべき初めての創業記念日は病院内で迎えることになりました。しかし一日中の点滴、コロナ禍での面会制限などの退屈な毎日のおかけでゆっくりと一年を振り返ることができました。

 事業としては計画の甘さや目論見外れなどはありましたが不思議なご縁に救われまずまず順調でした。初受注や売上目標など勢いだけで作った事業計画もおよそ達成することができました。二年目に向けてさらにチャレンジしていきたいと思います。

 不思議なご縁と書いたのは創業にあたって人との繋がりに大きな変化がありました。サラリーマン時代は人と機会に恵まれて本当に良いお付き合いをしていただきました。そこそこ大きな企業でそこそこの役職に就き、そのキャリアで転職をした私でしたが独立起業を機に全ての肩書が取れました。それにより当然ながら疎遠となってしまう方もいます。改めて知らず知らずに付いたタイトルが想像以上に影響していたことがわかります。タイトルは時に私以上の人格を持っていて、私や私の家族もその人格にのしかかられていたかも知れません。

 離れていく人がいる一方、素の私自身に期待して仕事を依頼される方や新しく増えた仲間がいます。サラリーマン時代より一層近づいて本音で話すようになった方もいます。一年を振り返るとお仕事をいただいたりネットワークが構築できたのは、まさにこのような方々のおかげです。偶然に生まれた繋がりもあります。全くの素の私とお付き合いいただいてる本当にかけがえのないご縁です。

 とにもかくにも素の自分で生きることになりました。この解放感はとても清々しいです。これまでのご縁に感謝すると共に今後もひとつひとつのご縁を大切にし、育み、生涯現役で社会の一員となるよう事業を展開していきたいと思います。

 

家庭教師2

 大学時代にアルバイトで家庭教師をしていました。今回は2件目の家庭について書きたいと思います。この家庭では2年程務めました。本屋さんの息子で、初めは小学校高学年の男の子を教えていましたが途中から低学年の弟も時間を分けて教えるようになりました。

 家庭といっても教える場所は本屋のバックヤードのような部屋で、時より母親がのぞきに来ていました。いわゆる教育ママとまではいきませんでしたが気がかりだったのでしょう。指導ぶりを監視されていたのかも知れません。それでもお兄ちゃんへの教え方が良かったと評価されて弟もお願いされたなら光栄です。

 小学生への指導では学ぶことに興味を持ってもらうことを一番に考えていました。彼らにとって教わることのほとんどは突拍子もなく現れたのものばかりで、先生らから「こうなんだ」と押し付けられるものばかりです。また心のコントロールもまだ未熟なので集中しろというのも無理があると思っていました。そんな状況にもかかわらず学校終わってからも家庭に教師がやってくるわけなので可哀想にも感じました。

 指導は教科書に沿ってやりましたが、なるべく「これ知ってると、こんなことに役立つんだよ」「テレビで見るあれって、このことに似てるね」「この前習ったのと引っ付けるとわかりやすいね」などと何かと関連つけながら進めていました。成績を聞かされたことがなかったので効果があったかどうかは残念ながらわかりません。

 あの兄弟はどんな大人になっただろうか?どちらかは書店を継いだだろうか?いずれにせよ元気で好奇心を持ち学び続けてくれていると嬉しい限りです。

家庭教師

 大学生時代のアルバイトで家庭教師をしていました。時給2000円と大変良く常に1件は保持していました。貧乏学生でしたので収入を第一に考え職業意識はとても低かったように思います。教え子や保護者に申し訳なかったと思うようになったのは残念ながら社会に出てからでした。

 初めての教え子は中高一貫の超進学校の高校1年生男子でした。母子家庭の一人っ子で部活のアメリカンフットボールを熱心にやっていました。母親はクラブのママをしており、私が訪問する頃に入れ替わりで出ていくため教えている間は教え子と二人でした。彼とは波長の合うところがあって授業よりスポーツや流行の話で盛り上がることが多かったです。また部活疲れでウトウトしだすと私も一緒になって寝てしまうこともありました。とにかくお互い勉強には積極的ではありませんでした。

 実はこの家庭には大変助けられました。初めて訪問した際に母親から「先生、お金が必要でしたらいつでも言ってくださいね」と意外な言葉をかけられました。私は大学入学を機に山登りを始めて靴やザックなど高価な道具を買うのに窮しており、ずうずうしくもさっそく10万円借りることにしました。そうすると数カ月は無給です。それでも冬になるとアイゼンやピッケルなど冬装備調達のためにまた10万円。他でも金欠時に助けてもらい、大学生活を充実させてくれたありがたい家庭でした。

 この家庭では3年間教えました(大して教えていない・・)が当時の彼の進路は全く記憶がありません。しかし、ひょんなことから知ることになります。年を重ね接待をしたりされたりするようになりクラブ街に行くようになって、あるクラブと同じフロアにこの母親の店を見つけました。家庭教師の出勤簿に名前のようなものが印刷されていましたが、実はお店の名前だったのです。つまり私はクラブの従業員として働いていたということです。20年以上経ってようやく理解しました。

 私の行ったクラブのママに聞くと母親の店は東証一部上場企業の社長も来るようなお店で、母親も高齢となり界隈で大ママとなっていて、息子は一流商社の社員とのことでした。きっとどんな教育受けても一流商社マンになったのでしょう。これらを聞いて、教え子と二人の時間はあれでよかったんじゃないかなと思いました。巡り合せとは本当に不思議なものです。