それでもなお

 チャレンジングな仕事であればあるほど順調に進むことはなく、失敗や障壁に当たり前のように遭遇します。そんな時、唱えてきたのが『それでもなお』でした。続く言葉は「挑戦しよう」「やり続けよう」「諦めない」などなど。アメリカに赴任していた頃『それでもなお』に相当する英語表現が見つけられずモヤモヤしていました。

 というのも、私にとって『それでもなお』は字面以上に感じているものがあったからだと思います。この言葉を使う時、取り組んでいることに確固たる信念を持っていたり、大袈裟な表現だと使命とか定めのように感じていたりしたように思います。なのでどの翻訳も同僚からの提案も私の感覚に合うものがありませんでした。

 頑固なように感じられるかも知れませんが、他人に対して訴えるものではありません。心の中で唱えるか、信頼する極身近なメンバーに穏やかに口にする程度です。しかし『それでもなお』の思いで乗り越えた困難は幾つもあります。悟ったように穏やかに使いますが、気力や勇気がみなぎり腹が据わるので不思議です。

 起業して3度目のお正月を迎えました。個人事業主の3年後生存率は38%というデータをどこかで見ました。勝負の年を『それでもなお』の精神で走り続け、まずはしっかりと38%に入りたいと思います。

介護と仕事

 先日、前々職で一緒だった先輩の会社を訪ねました。この先輩とは年に数回ゴルフをするなど退職後も関係が続いています。独身ですが2世帯住宅を建てられご両親と暮らしています。お酒とタバコが大好きで曲がったことが大嫌いという感じで、私が新入社員の頃はいかつく怖い存在でした。後輩に対して厳しかったですが、それ以上に自分に厳しい方でした。

 訪問の調整をメールでやり取りするうちに今年15日の有給休暇を取得したと知りました。年齢を重ねても気力もスタミナもありバリバリ働く象徴のような先輩でしたので大変驚きました。お聞きするとご両親の介護のためで、お父様が要介護2、お母様が要介護1に加え、今年は骨折や病気が重なり本当に大変とのことでした。ご両親の意向もあり介護ヘルパーなどの外部支援は受けずお一人で対応されているようです。お会いした時には大変お疲れの様子で、「周りに助けてもらいながら・・」と力なく話す姿を見るといたたまれない気持ちになりました。

 知識として介護と仕事の両立が大変なことは理解していましたが、長きにわたってその人となりを知りながら両立のために変わらざるを得なくなった先輩の姿を目の当たりにすると知識とは違った重みの理解がありました。私自身も実家の両親が心配になる時期に来ているので尚更なのかも知れません。

 私は昨年コンサルティングで起業し企業と人の支援を始めました。カウンセリングにおいて『ロジャーズの理論』ではクライアントが変化を起こす条件として『受容』『共感』『一致』が示されています。支援者の悩みや困難がより深く理解できるよう知識と共に経験やコミュニケーションを積み重ねていきたいと思います。

家庭教師4

 大学時代にアルバイトで家庭教師をしていました。今回は最後となる4件目の家庭について書きたいと思います。県内トップクラスの公立進学校の高校3年男子でした。4月から12月までの9カ月の短い期間、理系の数学だけを教えました。一人っ子で親の期待は相当なもので教え子本人もそれを感じていたようでした。また進学校内で周りとの差に悩んでいたのか何か焦燥感や悲壮感のようなものが感じられました。

 進学校ということもあり基礎学力はある十分あるようでしたが点数や順位に繋がらないのか問題を解くテクニックを求めていました。したがって指導内容は問題の捉え方やパターンの見つけ方など短期間で点数に直結する内容が多かったです。

 知識や理解を深めたいという欲求に知的好奇心という言葉があります。テクニック習得にもまた好奇心が必要な気がします。この場合は新しい情報を幅広く求める拡散的知的好奇心があてはまるように思います。私が受験勉強をしていた時にも学習塾で習った解答が芸術的にみえて「かっこいい、ものにしたい!」といった感情がありました。たぶんこのおかげで習得が進んだのでしょう。勉強から離れた今でも数学の芸術的な一面に惹かれています。

 教え子にはそんなことを思う余裕はなかったようです。ひたすらにテクニックを暗記しようとしていました。食欲もないのに食べ物を無理やり詰め込もうとしているようで気の毒にも思いました。残念ながら当時は数学の魅力や美しさを伝える発想も時間もありませんでしたが、職業意識を持って振り返るとテクニックを身に付けたいと要求されたならまずその土台となる好奇心を引き出すことをすべきだったかな、と思います。少し悔いの残る家庭教師先となりました。

家庭教師3

 大学時代にアルバイトで家庭教師をしていました。今回は3件目の家庭について書きたいと思います。この家庭では1年程務めました。短大・大学までエスカレータ式に進学できる私立高校に通う女子高生でした。閑静な住宅街にあるお宅で、部屋には父親の趣味と思われるオーディオ機器とクラシックのレコードやCDがたくさんあり、とても上品に感じたお家でした。

 教え子の勉強意欲は1件目と同じく乏しく、学校からの帰宅が遅れ開始時間に間に合わないこともよくありました。指導中はつまらなさそうにしている一方、無駄話に付き合うととても楽しそうにしていました。「大学ってどんなとこ?楽しい?」と目を輝かせるなど典型的な私立女子高生という感じでした。指導の日は母親が家にいて話すこともありましたが成績には全く興味がなく、母子揃って形だけの家庭教師をつけているようでした。父親に対しての体裁だったのかも知れません。

 開始時間は放課後の明るい時間帯で、終わるころはちょうど早めの夕飯時でした。寮生活の私を気遣ってか毎回夕飯を用意してくれました。それは段々豪華になっていき『〇〇御膳』の様相でした。母親の前でいただくのですが、私が食べる様子を嬉しそうに見ている顔がとても印象に残っています。この家庭の子供は娘二人ということもあって息子を幻想していたのでしょう。

 私の大学卒業をもって終了しましたが、この家庭で指導や成績についてのクレームは一切ありませんでした。ここでも私の職業意識が低くて申し訳なかったと思うものの、この家庭では教え子の興味に付き合い、母親の〇〇御膳を元気良く食べることが私の役割だったように感じます。また母子ともに幸せそうで、それでよかったとも思っています。

 彼女はキャンパスライフを謳歌し、素敵な彼氏を見つけ、結婚して男の子を生み、母親は婿と孫がかわいくてかわいくて仕方がない。きっとそうなったと思います。そんな形の幸せが想像できる微笑ましい家庭でした。

創業一周年

 個人事業主となって一年が経ちました。夏に虫垂炎とその合併症で入院を余儀なくし、記念すべき初めての創業記念日は病院内で迎えることになりました。しかし一日中の点滴、コロナ禍での面会制限などの退屈な毎日のおかけでゆっくりと一年を振り返ることができました。

 事業としては計画の甘さや目論見外れなどはありましたが不思議なご縁に救われまずまず順調でした。初受注や売上目標など勢いだけで作った事業計画もおよそ達成することができました。二年目に向けてさらにチャレンジしていきたいと思います。

 不思議なご縁と書いたのは創業にあたって人との繋がりに大きな変化がありました。サラリーマン時代は人と機会に恵まれて本当に良いお付き合いをしていただきました。そこそこ大きな企業でそこそこの役職に就き、そのキャリアで転職をした私でしたが独立起業を機に全ての肩書が取れました。それにより当然ながら疎遠となってしまう方もいます。改めて知らず知らずに付いたタイトルが想像以上に影響していたことがわかります。タイトルは時に私以上の人格を持っていて、私や私の家族もその人格にのしかかられていたかも知れません。

 離れていく人がいる一方、素の私自身に期待して仕事を依頼される方や新しく増えた仲間がいます。サラリーマン時代より一層近づいて本音で話すようになった方もいます。一年を振り返るとお仕事をいただいたりネットワークが構築できたのは、まさにこのような方々のおかげです。偶然に生まれた繋がりもあります。全くの素の私とお付き合いいただいてる本当にかけがえのないご縁です。

 とにもかくにも素の自分で生きることになりました。この解放感はとても清々しいです。これまでのご縁に感謝すると共に今後もひとつひとつのご縁を大切にし、育み、生涯現役で社会の一員となるよう事業を展開していきたいと思います。

 

家庭教師2

 大学時代にアルバイトで家庭教師をしていました。今回は2件目の家庭について書きたいと思います。この家庭では2年程務めました。本屋さんの息子で、初めは小学校高学年の男の子を教えていましたが途中から低学年の弟も時間を分けて教えるようになりました。

 家庭といっても教える場所は本屋のバックヤードのような部屋で、時より母親がのぞきに来ていました。いわゆる教育ママとまではいきませんでしたが気がかりだったのでしょう。指導ぶりを監視されていたのかも知れません。それでもお兄ちゃんへの教え方が良かったと評価されて弟もお願いされたなら光栄です。

 小学生への指導では学ぶことに興味を持ってもらうことを一番に考えていました。彼らにとって教わることのほとんどは突拍子もなく現れたのものばかりで、先生らから「こうなんだ」と押し付けられるものばかりです。また心のコントロールもまだ未熟なので集中しろというのも無理があると思っていました。そんな状況にもかかわらず学校終わってからも家庭に教師がやってくるわけなので可哀想にも感じました。

 指導は教科書に沿ってやりましたが、なるべく「これ知ってると、こんなことに役立つんだよ」「テレビで見るあれって、このことに似てるね」「この前習ったのと引っ付けるとわかりやすいね」などと何かと関連つけながら進めていました。成績を聞かされたことがなかったので効果があったかどうかは残念ながらわかりません。

 あの兄弟はどんな大人になっただろうか?どちらかは書店を継いだだろうか?いずれにせよ元気で好奇心を持ち学び続けてくれていると嬉しい限りです。

家庭教師

 大学生時代のアルバイトで家庭教師をしていました。時給2000円と大変良く常に1件は保持していました。貧乏学生でしたので収入を第一に考え職業意識はとても低かったように思います。教え子や保護者に申し訳なかったと思うようになったのは残念ながら社会に出てからでした。

 初めての教え子は中高一貫の超進学校の高校1年生男子でした。母子家庭の一人っ子で部活のアメリカンフットボールを熱心にやっていました。母親はクラブのママをしており、私が訪問する頃に入れ替わりで出ていくため教えている間は教え子と二人でした。彼とは波長の合うところがあって授業よりスポーツや流行の話で盛り上がることが多かったです。また部活疲れでウトウトしだすと私も一緒になって寝てしまうこともありました。とにかくお互い勉強には積極的ではありませんでした。

 実はこの家庭には大変助けられました。初めて訪問した際に母親から「先生、お金が必要でしたらいつでも言ってくださいね」と意外な言葉をかけられました。私は大学入学を機に山登りを始めて靴やザックなど高価な道具を買うのに窮しており、ずうずうしくもさっそく10万円借りることにしました。そうすると数カ月は無給です。それでも冬になるとアイゼンやピッケルなど冬装備調達のためにまた10万円。他でも金欠時に助けてもらい、大学生活を充実させてくれたありがたい家庭でした。

 この家庭では3年間教えました(大して教えていない・・)が当時の彼の進路は全く記憶がありません。しかし、ひょんなことから知ることになります。年を重ね接待をしたりされたりするようになりクラブ街に行くようになって、あるクラブと同じフロアにこの母親の店を見つけました。家庭教師の出勤簿に名前のようなものが印刷されていましたが、実はお店の名前だったのです。つまり私はクラブの従業員として働いていたということです。20年以上経ってようやく理解しました。

 私の行ったクラブのママに聞くと母親の店は東証一部上場企業の社長も来るようなお店で、母親も高齢となり界隈で大ママとなっていて、息子は一流商社の社員とのことでした。きっとどんな教育受けても一流商社マンになったのでしょう。これらを聞いて、教え子と二人の時間はあれでよかったんじゃないかなと思いました。巡り合せとは本当に不思議なものです。

働かない仕事

 学生時代のアルバイトの中で『働かない』時間の多い仕事がありました。ある人のアシスタントとして仕事場に行くのですが毎回同じ仕事ではないので、その人の名字を取って『Nさんバイト』と呼んでいました。学生寮の仲間内でももちろん人気がありました。Nさんも面倒見がよく、留年中の学生には逆指名をしてくれたりして私もずいぶんお世話になりました。

 基本的には電気工事屋さんだったと思うのですが、どの仕事場でもほとんど仕事をしません。朝、駅でピックアップしてもらい倉庫のような場所に立ち寄ります。工具や資材を積んだ後、その日の仕事場に向かいます。私がよく行ったのは自動車部品会社でした。仕事場に着くのは10時頃で着いたらまず一服です。Nさんはタバコと缶コーヒーが大好きで銘柄も決まっていてピースとポッカ(本人は顔の描いてるやつと呼んでました)でした。おしゃべりも大好きで実に小一時間の一服です。

 午前の一服が終わるとほんの少し作業をします。試験機の検査のようなものでした。私の役目はトランシーバーからのNさんの指示に従って配電盤の端子にテスタをあてることでした。今思えば検査の外部委託のようなものだったのだと思います。設備自体が特殊で機密上の制約もあることからころころと業者を変えることがなく、いわゆるズブズブの関係の中で委託されていたのだと思います。

 30分もすると「そろそろ昼飯だな。混む前に行こう」と敷地の外に食べに行きます。そこでもゆっくり食事とタバコとコーヒーとおしゃべりです。戻ってくると2時過ぎでちょこっとやったら3時の休憩。もはや笑えます。最後にまたちょこっとやったら撤収です。こちらは体力と好奇心が有り余っているのでつい張り切ってしまい「そんなに働かんでいいぞ」とNさんによく言われました。人懐っこい笑顔が印象的でした。

 憧れるようなことはありませんでしたが、こんな仕事もあるんだと受け止めていました。しかし後に社会に出た時にすごく納得しました。実社会ではこのような事例はいくらでもあります。良いか悪いかはわかりません。ただ、つくづく人も仕事も巡り合せだなぁと思います。Nさん元気かなぁ?

塗装屋

 高校生の頃に塗装屋でアルバイトをしていました。家業の店のお客さんが家族で営む小さな塗装屋でした。サッシのようなものを塗装したり、塗装前のマスキングをしました。時には外に出向き船のドックの扉の表面を滑らかにするバフ掛けもしました。それは炎天下で鏡の上にいるようなものでボタボタ汗を流しながらのキツイ作業でした。

 普段作業する現場は路地裏にあって倉庫かガレージのような建物の一区画でした。路地は舗装されておらず、現場の間口もシャッター1枚に扉一枚と狭かったです。うなぎの寝床のように奥に長く、吹き付け場や洗浄槽のようなものもありました。薄暗く、埃っぽく、薬剤臭い作業場でした。光化学スモッグで有名な街だったので、廃液も垂れ流しだったのでしょう。

 現場には中二階があり、畳2枚を縦に並べたくらいの細長い空間がありました。天井が低く中腰にならなければならず秘密基地のようでした。それでもテレビ、冷蔵庫、電熱コンロ、涼しかったのでクーラーらしきものもあったと思います。今でいうDIYでしょう。昼には弁当を食べたり家族は雑魚寝で昼寝をしていました。典型的な昭和の三ちゃん(とうちゃん、かあちゃん、兄ちゃん)極小町工場でした。

 印象的な会話があります。ある日、大将と仕事仲間との会話で「表はやっぱり看板屋に書いてもらっとかなあかんな」と聞こえてきました。文脈は忘れましたが、表の扉にある屋号のことでした。扉には明らかにプロの仕事とわかる『○○塗装』と書かれており、誰も来ないような路地裏の作業場には不釣り合いな感じでした。当時は「こんなところには見栄張るんだなぁ」と思っていました。

 昨年、私は自宅で個人事業を始めました。屋号も作ったので自宅のポストに手書きしようと思いましたが当時の会話を思い出しホームセンターで表札を依頼し作ってみることにしました。小さいながらもできあがった表札をポストに貼る時、何か誇らしく「さぁやるぞ」という覚悟が湧いてきました。「あぁ、あれは見栄ではなく決意なんだなぁ」と30年以上経ってようやく会話の真理がわかった気がしました。

宅配便の仕分け

 学生時代(1990年頃)に宅配便の仕分けのアルバイトをしていました。夜勤シフトは時給が良く1000円でした。事前連絡は必要なく、始業時間までに作業員詰所にいれば仕事を与えてくれました。支出に計画性がなく、夜行性の生活をしていた私にとってとても好都合なアルバイトでした。お金が足りなくなると行っては明け方に現金8000円をもらい、そのお金で生活していました。学生にとっては十分な金額でした。

 仕事内容はベルトコンベアから流れてくる荷物を地域別に取り出し、トラックに積むためのカーゴに詰める作業でした。様々な形や重さの荷物を決められたサイズのカーゴに、できるだけ多くかつ重量バランスよくの荷物を詰め込めよう指示されました。

 やり始めてみるとパズルのようで楽しかったです。ひとカーゴ詰め終えると自分なりに出来を評価し、荷物によってどう組わせていけばよいかを習得していきました。会心のひとカーゴができた時は心地良い達成感がありました。作業場に屋根はありましたがトラックの荷台が着くためほぼ屋外でした。冬の明け方は相当寒かったはずですがネガティブな思い出が全くありません。仕事内容と報酬に相当満足していたのだと思います。

 不思議と働いていた人のことは全く覚えていません。作業が始まれば人と話すことはありませんし、作業員手配係の人とも出席確認とバイト代を受け取るだけで合計1分も交わりません。どこの誰が働いていたか管理もされていなかったと思います。しかしながらそんな世界があることが知れたことは良い経験でした。名もなき労働者もまた社会の一部ということです。

 単純作業の中にも創意工夫がありどんな仕事にもやりがいが見つけられることを学び、社会に出た後に役立ちました。現代ではロボットが得意とする作業だと思います。AIが搭載されたロボットなら人間よりはるかに正確に素早くやってのけるでしょう。現にそうなっているように思います。経済合理性に基づいてロボットを導入することは否定をしませんが、名もなき労働者の受け皿や社会に出るための準備の機会まで失われてしまっているとすると少し残念に思います。