創業一周年

 個人事業主となって一年が経ちました。夏に虫垂炎とその合併症で入院を余儀なくし、記念すべき初めての創業記念日は病院内で迎えることになりました。しかし一日中の点滴、コロナ禍での面会制限などの退屈な毎日のおかけでゆっくりと一年を振り返ることができました。

 事業としては計画の甘さや目論見外れなどはありましたが不思議なご縁に救われまずまず順調でした。初受注や売上目標など勢いだけで作った事業計画もおよそ達成することができました。二年目に向けてさらにチャレンジしていきたいと思います。

 不思議なご縁と書いたのは創業にあたって人との繋がりに大きな変化がありました。サラリーマン時代は人と機会に恵まれて本当に良いお付き合いをしていただきました。そこそこ大きな企業でそこそこの役職に就き、そのキャリアで転職をした私でしたが独立起業を機に全ての肩書が取れました。それにより当然ながら疎遠となってしまう方もいます。改めて知らず知らずに付いたタイトルが想像以上に影響していたことがわかります。タイトルは時に私以上の人格を持っていて、私や私の家族もその人格にのしかかられていたかも知れません。

 離れていく人がいる一方、素の私自身に期待して仕事を依頼される方や新しく増えた仲間がいます。サラリーマン時代より一層近づいて本音で話すようになった方もいます。一年を振り返るとお仕事をいただいたりネットワークが構築できたのは、まさにこのような方々のおかげです。偶然に生まれた繋がりもあります。全くの素の私とお付き合いいただいてる本当にかけがえのないご縁です。

 とにもかくにも素の自分で生きることになりました。この解放感はとても清々しいです。これまでのご縁に感謝すると共に今後もひとつひとつのご縁を大切にし、育み、生涯現役で社会の一員となるよう事業を展開していきたいと思います。

 

家庭教師2

 大学時代にアルバイトで家庭教師をしていました。今回は2件目の家庭について書きたいと思います。この家庭では2年程務めました。本屋さんの息子で、初めは小学校高学年の男の子を教えていましたが途中から低学年の弟も時間を分けて教えるようになりました。

 家庭といっても教える場所は本屋のバックヤードのような部屋で、時より母親がのぞきに来ていました。いわゆる教育ママとまではいきませんでしたが気がかりだったのでしょう。指導ぶりを監視されていたのかも知れません。それでもお兄ちゃんへの教え方が良かったと評価されて弟もお願いされたなら光栄です。

 小学生への指導では学ぶことに興味を持ってもらうことを一番に考えていました。彼らにとって教わることのほとんどは突拍子もなく現れたのものばかりで、先生らから「こうなんだ」と押し付けられるものばかりです。また心のコントロールもまだ未熟なので集中しろというのも無理があると思っていました。そんな状況にもかかわらず学校終わってからも家庭に教師がやってくるわけなので可哀想にも感じました。

 指導は教科書に沿ってやりましたが、なるべく「これ知ってると、こんなことに役立つんだよ」「テレビで見るあれって、このことに似てるね」「この前習ったのと引っ付けるとわかりやすいね」などと何かと関連つけながら進めていました。成績を聞かされたことがなかったので効果があったかどうかは残念ながらわかりません。

 あの兄弟はどんな大人になっただろうか?どちらかは書店を継いだだろうか?いずれにせよ元気で好奇心を持ち学び続けてくれていると嬉しい限りです。

家庭教師

 大学生時代のアルバイトで家庭教師をしていました。時給2000円と大変良く常に1件は保持していました。貧乏学生でしたので収入を第一に考え職業意識はとても低かったように思います。教え子や保護者に申し訳なかったと思うようになったのは残念ながら社会に出てからでした。

 初めての教え子は中高一貫の超進学校の高校1年生男子でした。母子家庭の一人っ子で部活のアメリカンフットボールを熱心にやっていました。母親はクラブのママをしており、私が訪問する頃に入れ替わりで出ていくため教えている間は教え子と二人でした。彼とは波長の合うところがあって授業よりスポーツや流行の話で盛り上がることが多かったです。また部活疲れでウトウトしだすと私も一緒になって寝てしまうこともありました。とにかくお互い勉強には積極的ではありませんでした。

 実はこの家庭には大変助けられました。初めて訪問した際に母親から「先生、お金が必要でしたらいつでも言ってくださいね」と意外な言葉をかけられました。私は大学入学を機に山登りを始めて靴やザックなど高価な道具を買うのに窮しており、ずうずうしくもさっそく10万円借りることにしました。そうすると数カ月は無給です。それでも冬になるとアイゼンやピッケルなど冬装備調達のためにまた10万円。他でも金欠時に助けてもらい、大学生活を充実させてくれたありがたい家庭でした。

 この家庭では3年間教えました(大して教えていない・・)が当時の彼の進路は全く記憶がありません。しかし、ひょんなことから知ることになります。年を重ね接待をしたりされたりするようになりクラブ街に行くようになって、あるクラブと同じフロアにこの母親の店を見つけました。家庭教師の出勤簿に名前のようなものが印刷されていましたが、実はお店の名前だったのです。つまり私はクラブの従業員として働いていたということです。20年以上経ってようやく理解しました。

 私の行ったクラブのママに聞くと母親の店は東証一部上場企業の社長も来るようなお店で、母親も高齢となり界隈で大ママとなっていて、息子は一流商社の社員とのことでした。きっとどんな教育受けても一流商社マンになったのでしょう。これらを聞いて、教え子と二人の時間はあれでよかったんじゃないかなと思いました。巡り合せとは本当に不思議なものです。

入院2

 およそ3か月ぶりの投稿となります。先の投稿『入院』の後、待機手術で再入院し虫垂摘出を行いましたが、予後が悪く退院4日後には再々入院となり、そこから19日間の入院生活となりました。その退院後の診察で完治と診断され、ようやく一段落となりました。延べ36日の入院となりこれまでの人生では経験したことのない仕事のブランクとなりました。

 昨年起業しコンサルティング業を始めていましたので、お客様のご配慮もいただきながら比較的柔軟にスケジュール調整できたのは幸運でした。それでも退院のタイミングは病状次第、最悪の場合は再手術の可能性もありましたので、「何月何日までには・・」とお伝えすることができず申し訳なさとストレスを感じていました。記念すべき創業1周年も残念ながら病室で迎えました。

 家族とメッセージのやり取する中に母から「天与の休みと思って・・」とありました。コロナ禍で面会も病棟内の移動も制約されストレスが溜まりそうなところ、この言葉のおかげでいろんな本を読んだり考えたりすることに意識を向け、今後に向けての有意義な時間にすることができました。また、異動、転職、起業と激動のキャリアだったこの数年間をゆっくり振り返えることもできました。「少し立ち止まって、ゆっくり考えてみたら?」とまさに天から与えられた休み時間のようでした。

 今回の入院では家族や多くお方々に心配や迷惑を掛けてしまいましたが、とても多くの学びがありました。私自身はこれまで病気とは無縁でしたので病人となって初めて気付いたことが多くあります。また病人本人だけでなく、家族や周りの方々の気持ち、病気に関連する社会保障や保険など取り巻く環境についても改めて気付いたこともありました。この経験を今後の対人支援に生かしていきたいと思います。

 『やりたいことはやれるうちに』を今回痛感しました。とにもかくにも健康第一!健康寿命を少しでも長く延ばしていきたいです。ゆるりと投稿も再開します。

世代

 ある年代をまとめて呼ぶときに世代という言葉があります。団塊の世代、団塊ジュニア世代、ゆとり世代、ミレニアム世代、Z世代(ジェネレーションZ)などいろいろあります。また新人類や(就職)氷河期時代などと分類することもあります。私はバブル世代とも新人類とも呼ばれました。また親や子がそれぞれの年代あたりを親世代、子世代と呼んだり、会社の経営者ごとに先代とか先々代と呼ぶこともあります。

  世代として一括りに呼ばれたくない、画一的に決めつけられているようで嫌だ、という意見を聞くことがあります。一方、そもそも世代を選んで生まれたわけではなく、たまたま生まれ落ちた年代なので全く気にしないという方もいるかも知れません。しかしながら私は世代という言葉には何か共感するものがあります。

 世代名が表すようにそれぞれの世代には望もうが望まなかろうが独特の環境の中で生きることになります。不憫と思われる世代もあればラッキーと思われる世代もあります。それでも多くの人は卑屈になったり浮かれたりせず生きています。それぞれの世代を認めて自分の役割を全うしようとしているように見えます。そうやって世代を繋げていくのが人の営みのようにも思えます。

 私自身がセカンドキャリアをスタートするにあたってこの『世代を繋ぐ』ことをテーマに考えました。これまで、またこれからの習得によって得られたものを余すことなく使って実現していきたいと思います。その思いを込めて屋号をつけました。私も私世代の役割を果たせられたらハッピーです。

医療スタッフ

 先月初めて病気で入院し気付いたことがあります。それは医療スタッフの若さです。最前線で奮闘されているドクターはじめ看護師、サポートスタッフの多くがとても若いと感じました。これまでの私の病院に対するイメージは重鎮のような雰囲気のドクターに凄惨な現場でも全く動じない肝の据わったベテラン看護師でした。かなり偏見が入っていますが・・・

 私自身が歳をとったこともあります。会社において地位が上がるにつれて教わることも指示されることも減っていきます。ましてや若いメンバーからは皆無になります。むしろ立場上、彼らが言うことを確かめる(疑われてると思われているでしょう)ことすらあり、場合によっては間違いを正します。

 病院ではそうはいきません。若かろうが頼りなさげに見えうが信頼して身を預けるしかありません。しかし若いみなさんはとてもプロフェッショナルでした。加えて、私が入ったおじさん4人部屋のどの患者とも彼ら彼女らなりに敬意をもって接する姿はとても素晴らしく感心しました。気を遣ってもらって申し訳ないという感情も湧きました。

 会社勤めでは気付き難かったのですが今回の入院を通じて若い世代がしっかりと社会を背負いつつあるのだと実感しました。頼もしいです。私自身は次の世代に繋ぎ託していく世代に入ってきていると思います。若い世代と協調しながら自分世代の役割をしっかり果たしていけるようなキャリアを作っていきたいと思います。

入院

 先日、虫垂炎を患い入院することになりました。数日前から熱があったりお腹に痛みがあっりしたのでクリニックで診てもらいましたが原因がわからず、総合病院にかかったことろ虫垂炎と診断され即日入院となり5泊6日を過ごすことになりました。体の丈夫さには少なからず自信があったので「まさか」の思いでした。

 社会人になってから初めての入院です。金曜日でした。その日の午後にも訪問予定の会社があったのですぐに連絡し、病室に入ってからは次週訪問予定のお客様に順番に連絡しながら日程変更の調整を始めました。現在は個人事業主としてコンサルティングをしているので日程調整には柔軟性があり、お客様のご厚意もあってスムースに対応することができました。

 入院中、これがサラリーマン時代におきたらどうだっただろうと考えました。スケジュールびっちりの中、突然何日も休むこと自体がストレスになったのではないかと思いました。特に部門長を務めているような時だと相当に。私自身の責任感や部門長像に偏りがあるのも一因と思いますが、少なからずそう思う方もおられるのではないでしょうか。今回は計6日でしたが半月、数カ月となると「会社や部下に大変迷惑かけた」「部門長は続けられない」と自身を責めてしまうかも知れません。

 これまで同僚や部下が病欠することはありました。純粋な気持ちで「まずはしっかり治しましょう」と声掛けていましたが、当人はとても深刻に悩んでいて声掛けも負担になっていたのかも知れないと思いました。改めて『寄り添う』ことの大切さと難しさを感じます。私が思うようなストレスを持つ方やそんな雰囲気の会社は少ないと願いたいですね。

 

働かない仕事

 学生時代のアルバイトの中で『働かない』時間の多い仕事がありました。ある人のアシスタントとして仕事場に行くのですが毎回同じ仕事ではないので、その人の名字を取って『Nさんバイト』と呼んでいました。学生寮の仲間内でももちろん人気がありました。Nさんも面倒見がよく、留年中の学生には逆指名をしてくれたりして私もずいぶんお世話になりました。

 基本的には電気工事屋さんだったと思うのですが、どの仕事場でもほとんど仕事をしません。朝、駅でピックアップしてもらい倉庫のような場所に立ち寄ります。工具や資材を積んだ後、その日の仕事場に向かいます。私がよく行ったのは自動車部品会社でした。仕事場に着くのは10時頃で着いたらまず一服です。Nさんはタバコと缶コーヒーが大好きで銘柄も決まっていてピースとポッカ(本人は顔の描いてるやつと呼んでました)でした。おしゃべりも大好きで実に小一時間の一服です。

 午前の一服が終わるとほんの少し作業をします。試験機の検査のようなものでした。私の役目はトランシーバーからのNさんの指示に従って配電盤の端子にテスタをあてることでした。今思えば検査の外部委託のようなものだったのだと思います。設備自体が特殊で機密上の制約もあることからころころと業者を変えることがなく、いわゆるズブズブの関係の中で委託されていたのだと思います。

 30分もすると「そろそろ昼飯だな。混む前に行こう」と敷地の外に食べに行きます。そこでもゆっくり食事とタバコとコーヒーとおしゃべりです。戻ってくると2時過ぎでちょこっとやったら3時の休憩。もはや笑えます。最後にまたちょこっとやったら撤収です。こちらは体力と好奇心が有り余っているのでつい張り切ってしまい「そんなに働かんでいいぞ」とNさんによく言われました。人懐っこい笑顔が印象的でした。

 憧れるようなことはありませんでしたが、こんな仕事もあるんだと受け止めていました。しかし後に社会に出た時にすごく納得しました。実社会ではこのような事例はいくらでもあります。良いか悪いかはわかりません。ただ、つくづく人も仕事も巡り合せだなぁと思います。Nさん元気かなぁ?

キャリア形成

 ここ数年になって「キャリア」という言葉を聞くようになり、私自身も使うようになりました。少し澄ました響きがあり、使った後にインテリぶったように捉えられることがあります。厚生労働省HPでは「キャリア」について「過去から将来の長期にわたる職務経験やこれに伴う計画的な能力開発の連鎖」と紹介されています。人生100年時代を迎え、定年延長や年金支給年齢引き上げを推進するためにも職業人としての充実を強く勧めているのでしょう。

 「キャリア形成」とは能動的にキャリアを作ることを意味しますが、私が就職した頃にはこのような発想はありませんでした。それでも30年のサラリーマン生活を振り返るとそれなりのキャリアが形成されており現在のコンサルティング業に強く繋がっています。私自身は何も考えずひたすら目の前の仕事に取り組んでいたことしか思い出せませんが、人と機会に恵まれたおかげだと思います。一方、もっと早く「キャリア形成」の意義を知り、自身やメンバーの育成に取り込められたら良かったのにとも思います。

 この30年で職場環境は大きく変わりました。それでも価値観はそれほど大きく変わらなかったように思います。それは私がキャリア形成できた一因にもなったと思います。しかし現在はどうでしょうか。職場環境はこれまでよりはるかに速いスピードで変化し、価値観すらも変化しているように思います。先輩から受け継いできたものが有効ではなくなる不安もあります。リカレント教育やリスキリングといった言葉をよく聞くのもその表れではないでしょうか。メンバーの育成を振り返ると「あれでよかったのか」と内省し、罪悪感を感じることすらあります。

 昨年対人支援の国家資格の受験に失敗した話を書きました。仲間の助けもあって今年なんとか合格することができました。資格所得を機にやり残した仕事としてキャリア形成支援をしていきたいと考えています。一緒にやってきたメンバーや同じような境遇の方々が激動の時代においてもイキイキと働き続けられる一助となればとの思いです。

塗装屋

 高校生の頃に塗装屋でアルバイトをしていました。家業の店のお客さんが家族で営む小さな塗装屋でした。サッシのようなものを塗装したり、塗装前のマスキングをしました。時には外に出向き船のドックの扉の表面を滑らかにするバフ掛けもしました。それは炎天下で鏡の上にいるようなものでボタボタ汗を流しながらのキツイ作業でした。

 普段作業する現場は路地裏にあって倉庫かガレージのような建物の一区画でした。路地は舗装されておらず、現場の間口もシャッター1枚に扉一枚と狭かったです。うなぎの寝床のように奥に長く、吹き付け場や洗浄槽のようなものもありました。薄暗く、埃っぽく、薬剤臭い作業場でした。光化学スモッグで有名な街だったので、廃液も垂れ流しだったのでしょう。

 現場には中二階があり、畳2枚を縦に並べたくらいの細長い空間がありました。天井が低く中腰にならなければならず秘密基地のようでした。それでもテレビ、冷蔵庫、電熱コンロ、涼しかったのでクーラーらしきものもあったと思います。今でいうDIYでしょう。昼には弁当を食べたり家族は雑魚寝で昼寝をしていました。典型的な昭和の三ちゃん(とうちゃん、かあちゃん、兄ちゃん)極小町工場でした。

 印象的な会話があります。ある日、大将と仕事仲間との会話で「表はやっぱり看板屋に書いてもらっとかなあかんな」と聞こえてきました。文脈は忘れましたが、表の扉にある屋号のことでした。扉には明らかにプロの仕事とわかる『○○塗装』と書かれており、誰も来ないような路地裏の作業場には不釣り合いな感じでした。当時は「こんなところには見栄張るんだなぁ」と思っていました。

 昨年、私は自宅で個人事業を始めました。屋号も作ったので自宅のポストに手書きしようと思いましたが当時の会話を思い出しホームセンターで表札を依頼し作ってみることにしました。小さいながらもできあがった表札をポストに貼る時、何か誇らしく「さぁやるぞ」という覚悟が湧いてきました。「あぁ、あれは見栄ではなく決意なんだなぁ」と30年以上経ってようやく会話の真理がわかった気がしました。