1on1(ワンオンワン)

 新しいミーティングの形態として会社でも取り入れられるようになってきているようです。米国シリコンバレー由来とされており、上司と部下が1対1で面談を行います。評価面談とは異なり、日常的な悩みや不安、業務での課題や思いを共有します。部下から上司への報告や上司から部下への指示を主なる目的とした場ではありません。頻度は週1、最低でも月1とされています。時間は長くて30分とか、本音を話すためには最低60分とか様々な考え方があるようです。

 コロナ禍で進んだテレワーク、隔離生活の背反として雑談の機会が激減し、それを補う効果もあると言われています。確かにちょっとした立ち話、移動中や休憩場での会話、レクリエーションやイベントを通じてコミュニケーションが図られ、業務や人間関係がうまく維持されていたことは納得がいきます。

 私は外資系企業に勤めていた時に部下として1on1を経験しました。社内のルールとして定められていました。目的や仕組みの説明を受けた時は大変ありがたいミーティングと思いました。転職後ということもあり自分からいろんなことを尋ねたり、また上司からも会社のことや思いを聞くことができました。上司の個人的な好き嫌い、他者への賞賛、批判など人間性までにじみ出た話は聞いていて楽しかったです。

 しかし職場や業務に慣れてくると、次第に業務報告、指示の場に変わっていきました。時間も長くなりがちで仕切り直して延長戦となることもありました。私の上司は10人位の部下と毎週、各30分1on1ミーティングをしていましたので単純にこれだけで5時間。自身も上司とのミーティングがあったので、およそ週に1日をコミュニケーションに費やしていたと思います。多くの会議やメール対応に加え本来の考える業務を思うと、1on1の時間は業務進捗に使いたくなるのは理解でき、同情も湧きます。

 インターネットや書籍には1on1がうまくいくポイントや陥りやすい失敗がたくさん紹介されています。しかしいずれも「そりゃそうなんだけど・・」と思えてしまいます。目的は素晴らしいと思うので、当事者2人に適した1on1をできるだけ早く見つけたいものです。そう思うと『雑談』は本当に偉大なものですね。1on1がうまくいくことについて雑談すれば簡単に見つかるかも知れません。

退職2

 以前退職には大変なエネルギーがかかると書きました。しかし退職には新しい発見も多く、今回はそれについて書きたいと思います。そのひとつに「相手が私をどのように見ていたかわかること」があります。

 退職して新しい会社に勤めたり自分で事業を始めても引き継き関係を持つ方々がいます。もちろんお付き合いの仕方は変わってくるのですが、改めて挨拶に回ります。前職でのお礼を申し上げたり、昔話をするうちに「実は・・・」と話してくてることがよくあります。

 上司や得意先さんの場合は、私の思いを叶えられなった後悔を打ち明けられるケースが多いように思います。ご自身が私に共感していながらも支持できなかったり、時には私が主張できていたたことが羨ましかったとおっしゃる方もいます。そして挨拶を温かく受け入れてくれます。この方も同じように悩んでいたのだなと思いながら、やってきたことに間違いがなかったと誇らしくも思います。この方とまた繋がっていられることに幸せを感じます。

 後輩や仕入先さんはまた違った打ち明けをされたります。「実はあの時こんな状態で、〇〇さん(私)に言われたことで私や家族が救われたんです」や「〇〇さんが△△さんにこういったくださったおかげでうまくいったんです」と時には涙して語ってくれる方もいます。また私がそれほど意識をしていなかったにもかかわらず「〇〇さんに厳しく育てられて私の今があるんです」と打ち明けられたこともあります。そんな思いでいてくれたんだと驚くと共に「あぁあの時しっかりやっておいてよかったなぁ、報われたなぁ」としみじみ思います。

 在職中にも深いコミュニケーションは取っているつもりですが不思議なことに在籍中に聞かされることはごく稀です。恥ずかしかったり、気を遣って関係が変わってしまうのを心配してしまうせいでしょうか。次に向けての励ましが入っているのかも知れませんが、いずれにしても新しい自分を発見でき次のチャレンジにポジティブに向かえます。

宅配便の仕分け

 学生時代(1990年頃)に宅配便の仕分けのアルバイトをしていました。夜勤シフトは時給が良く1000円でした。事前連絡は必要なく、始業時間までに作業員詰所にいれば仕事を与えてくれました。支出に計画性がなく、夜行性の生活をしていた私にとってとても好都合なアルバイトでした。お金が足りなくなると行っては明け方に現金8000円をもらい、そのお金で生活していました。学生にとっては十分な金額でした。

 仕事内容はベルトコンベアから流れてくる荷物を地域別に取り出し、トラックに積むためのカーゴに詰める作業でした。様々な形や重さの荷物を決められたサイズのカーゴに、できるだけ多くかつ重量バランスよくの荷物を詰め込めよう指示されました。

 やり始めてみるとパズルのようで楽しかったです。ひとカーゴ詰め終えると自分なりに出来を評価し、荷物によってどう組わせていけばよいかを習得していきました。会心のひとカーゴができた時は心地良い達成感がありました。作業場に屋根はありましたがトラックの荷台が着くためほぼ屋外でした。冬の明け方は相当寒かったはずですがネガティブな思い出が全くありません。仕事内容と報酬に相当満足していたのだと思います。

 不思議と働いていた人のことは全く覚えていません。作業が始まれば人と話すことはありませんし、作業員手配係の人とも出席確認とバイト代を受け取るだけで合計1分も交わりません。どこの誰が働いていたか管理もされていなかったと思います。しかしながらそんな世界があることが知れたことは良い経験でした。名もなき労働者もまた社会の一部ということです。

 単純作業の中にも創意工夫がありどんな仕事にもやりがいが見つけられることを学び、社会に出た後に役立ちました。現代ではロボットが得意とする作業だと思います。AIが搭載されたロボットなら人間よりはるかに正確に素早くやってのけるでしょう。現にそうなっているように思います。経済合理性に基づいてロボットを導入することは否定をしませんが、名もなき労働者の受け皿や社会に出るための準備の機会まで失われてしまっているとすると少し残念に思います。

初受注

 昨年9月に個人事業としてコンサルティングを始めました。年内は開業の挨拶や専門家登録などを中心に、受注1件を目標としていました。12月になって全く予期していなかったとこから「少しお願いしたい」と声がかかりました。依頼内容は事業内容にも載せていなかったのですがお悩みを聞いてみると私が経験して十分な知見のあることだったのでお引き受けすることになり初受注となりました。

 昨年内の初受注は半ば願望のようなものでしたが現実となり嬉しさと驚きで気持ちがいっぱいになりました。本当にラッキーな形の受注であり、ご縁の不思議をつくづく実感しました。また自覚していなかったお役に立つものが発見できたのも幸運でした。今月には費用を振り込んでいただき真っ新の事業用口座に記念すべき初売上が刻まれました。

 そして初受注にも増して嬉しかったのがお客さんからの感謝の言葉でした。大変困った状況だったようで「いい方に巡り合えて本当によかった」と言ってくれました。心から発せられていることが伝わり、とても胸に響きまた新鮮でした。誰かのお手伝いをしようとコンサルティングを起業しましたが『やりがい』として求めていたものはこれだったのかと思い知らされた言葉でした。

 嬉しい反面、会社生活においてお客さんに感謝されるような努力を続けていたか?周りの人に正しく感謝を伝えていたか?と振り返る機会になりました。社会に出た時には『世のため、人のため、成長のため』と意気込んでいたと思うのですが、長い会社生活の中で忘れてしまっていたものがたくさんあったように思います。今回の感動を忘れずに一日も長く、一企業でも一人でも多く支援できるよう頑張りたいと思います。

45歳定年制

 昨年9月にサントリーホールディングスの新浪剛史社長が提言した『45歳定年制』がメディアに取り上げられ、関心の高いワードしてSNSも湧かせました。私の周りでもいろんな意見が聞かれました。50歳を過ぎて初めての転職をし、後に起業して現在53歳の私がこのニュースを聞いた時「そんな制度があったらもっと悩まずにキャリアチェンジができたのにな」という感情がありました。もちろん会社や家庭の複雑な事情を全てないものとした場合です。また新卒から同じ会社で勤め上げてた場合です。

 私は製造業でエンジニアをしていましたが20年もやれば節目の様なものが見えてきます。よほどの精進をしていなければ第一線では使えなくなりますし、マネージメントらしきものが職務に加わってくると技術は衰えていくばかりでとても世界と戦うような鋭さが保てるとは思えませんでした。技術の成長は人の成長よりはるかに速いように感じていました。

 マネージメントも似たようなものでした。意識しないようにしていても成功体験が判断基準になりがちです。上司もそれを期待して役職に任命したり指示をするので必然です。つまりその瞬間だけに有効な人事にしてしまっていたように思います。また厄介なことに技術のケースと違って優劣がはっきりしません。システムや運営の仕方が遅れてたり育成の方向を間違えていてもすぐには気が付かないのではないでしょうか。ましてや挽回のアクションなど起こりようがありません。マネージャーはエンジニア以上に旬が短いように感じます。

 このように感じていた私は昨今の変革期にあたって少しでも若い世代に早くバトンを渡したいと思っていて自身のセカンドキャリアを考えるようになりました。しかしながら同じように考える人ばかりではなく理解すらされないことも多く次に進むのにたいへんなエネルギーを費やしました。「45歳定年制さえあれば・・・」です。

 しかし解決し難い問題が多いのも理解します。終身雇用を前提とした報酬のもらい方もそうですし、定年後の働き方についての理解や人材マーケットも未熟のように感じます。45歳以上に期待するものが何もないとは全く思っていません。衰える能力も多くありますが、複雑でめんどくさくて感情が入り乱れたりするような問題を理屈抜きに解いてしまう能力があったりします。上手な制度設計や動機付けで次世代がより明るくなるのではと期待しています。

働かないおじさん2

 先回辛いといったテーマですが最近「これか⁈」と思うことがあり早速『2』を投稿することになりました。

 先日ある対人支援のための資格試験の合格発表がありました。結果は学科〇、実技×でした。学科についてはマークシート方式で理論や関連する法律、制度、現状認識などが問われます。実技は論述と面接なのですがいずれもどのように人と接するかを試すものであり、そのためのスキルや心構えを評価されました。私にとって今年はキャリアチェンジのタイミングでもあったのですが、この不合格は事業に対しての資格取得の心理的ダメージよりも×を付けられることのダメージの方が大きく感じられました。

 50年を超える人生経験や30年の会社生活の中ではそれなりに対人能力は身に付いていると思っていました。良い結果をもたらしたこともあれば、悪い結果となりそこから学んだことも数多くあります。もちろん今回は資格に見合ったスキルや心構えが必要であり限られた時間の中でそれを発揮せねばなりません。準備不足であったことは明らかであり大いに反省せねばなりません。

 しかしながら大括りの対人能力というもので×を突きつけれれたことは、社会人としての欠陥を指摘され、大袈裟に言うとこれまでの人生を否定されたような感覚に陥りなかなかのショックでした。同時に「働かないおじさん」の背景にはこういう感覚があるのでは?とも思いました。新しい環境での適応力を測られた時にその基準や尺度が共有できておらず、自信があるものに×がついてしまって馬鹿らしくなったりヤル気を失ってしまう・・。

 もしそうだとすると今回の結果は今後の対人支援において貴重な経験となったのかも知れません。この思いを忘れずにもっと寄り添えられるようになれれば価値ある不合格です。資格取得に向けては改めてしっかり勉強と準備をし再チャレンジする予定です。これまでの経験を新しい要求に結び付けていければ最高です。「働かないおじさん」が「頼れるおじさん」になるヒントが見つかるかも知れないと期待しています。

働かないおじさん

 このタイトルはとても辛いです。私自身の働きぶりが周りからどのように評価されていたかはわかりませんが、年齢的にはドンピシャであり誰からもこのように呼ばれないという自信はありません。同じように使われる言葉として『妖精さん』もあるようですが、こちらは小馬鹿にされた感があるもののファンタジー感の方が強くてピンとこないのでダメージがありません。

 「24時間戦えますか」のCMキャッチフレーズが流行語になるほどバリバリ長時間働くことが大人の在り方のように謳われた時代がありました。私もそういう雰囲気の中で社会に出て、強者の先輩方と仕事をしました。時間管理はあったもののそれをかいくぐって長時間会社に居残り働きました。それでも残っているのは充実していた思い出ばかりです。

 このような時代において今『働かないおじさん』と呼ばれる人たちは実によく働いていました。産業自体の成長や新製品・新事業の創出で仕事は増すばかりでしたがバシバシと捌いていきました。愚痴もたくさん吐きますが、武勇伝のような語りで誇らしげでした。トラブルにも嬉々として飛び込んでいきました。もちろんそんな派手な人ばかりではありませんが、それぞれのスタイルで黙々と、コツコツと、本当によく働いていたと思います。

 ではいつから働かなくなったのでしょう?本当に働いていないんでしょうか?確かにやる気を失ってるように感じられる方もいます。一方で実力に見合わない業務を与えられている場合もあるように思います。「あの人が本気で働いたら周りが付いていけないだろうなぁ」「何故あの人にもっと仕事させないのかなぁ」と思うことがよくありました。おじさん側、企業側双方に何か動機付けできればとても強力なリソースとなるように思います。そのためにもまずはネーミングを廃止したいですね。

退職

 私はこれまでに2度の退職を経験しました。いずれの退職もエネルギーが必要とされとても疲れました。私の場合は努めて1日も無職の状態を作りませんでしたが結果的に正解でした。次に向かうモチベーションがなけれ途中でイヤになったかも知れません。

 1度目の退職は大学卒業後28年1か月勤めた会社でした。幸運にも重要なポストをいただいていたので当然ながら担当役員の抵抗に会いました。円満退社とは言わないまでも私の思いを理解してもらおうとタフな面談を繰り返し退職願受理に1か月ほど時間を要しました。それでも理解は得られなかったように思います。私自身が未熟ったのか最後は引き延ばしされてるようにしか思えませんでした。最終出社日を迎えた時は本当に安堵しました。

 2度目の退職は1年5か月弱の在籍の後でした。コロナ禍に加え元来テレワーク状態で世界中の拠点と仕事をしている外資系企業でしたので帰属意識や人との繋がりは希薄でした。退職意思に対しても強い抵抗もなく、本人の意思を尊重するスタンスでした。採用コストという視点からは採用は失敗だったのだと思いますが、日常的なことのような受け止め方で補填の活動が開始されたと思います。正味2週間の引継ぎをして終わりです。2度目の退職はとても簡単でした。

 ところが退社後は転職ではなく独立起業でしたのでいろんな手続きを個人でやる必要がありました。社会保険や医療保険、年金などが挙げられます。もちろん並行して開業の準備もありました。サラリーマンであれば会社の指示通り手続きすることに何の疑問も持ちませんでしたが、独立後は全て自己責任なので否応なく自分で調べて何を選択すべきか考えるようになります。人事のサポート、保険料や年金の会社負担など日本のサラリーマンは恵まれていると痛感しました。

 

起業

 この度起業しました。退職の手続きや起業の準備に忙しく長らく投稿が滞っていましたが、再開しますのでまたよろしくお願いします。

 さて起業といっても最近はいろんな形があり、副業として起業することもカジュアルになってきたようです。私の場合はサラリーマンを辞めて、個人事業主として事業を営むことになります。昔は脱サラとも呼ばれていましたが、脱サラは私の父の場合のように果物店などの小売業や飲食店を経営するイメージがありました。私はこれまでの経験を生かしてコンサルティングを行いますので独立起業というイメージでしょうか。

 起業にあたってファイナンシャルプランナー資格取得の勉強もしましたので、自分が加入している社会保険制度や年金制度を詳しく知ることになりました。そこで初めて自分や家族がどれほど保護されていたか気づくことになりました。雇用保険もその一つです。幸い大きな事故や病気をすることもありませんでしたが、失って初めてありがたみがわかります。また年金・健康保険の会社負担分も大変ありがたいものです。

 とはいうものの開業届も提出し、新しい人生がスタートしました。コンサルティングというと澄ましたイメージがありますが、どちらかというと自分の知識や経験、ネットワーク期待する方がいれば大いにお手伝いしたいとの思いです。それをセカンドキャリアとしていきたいと思います。

8月12日

 36年前の今日、日本航空123便墜落事故が起きました。私は家業の果物屋の手伝いと強く結びついて記憶しています。事故を知ったのは果物の配達をした帰りでした。商店街の入り口に電器屋があり、店頭のテレビで速報が流れていました。御巣鷹の尾根に墜落したのが18時56分30秒とのことですので19時過ぎてもまだ配達していたということです。お盆前の繁忙期なので朝から手伝っていましたが、日が暮れてもまだ数件の配達が残っていました。その後も電器屋前を通る度に更新される映像に足を止めていました。

 私は初め事故の重大さにあまりピンときていませんでした。未熟だったのでしょう。店に戻って母に「飛行機が落ちたらしいよ」と軽く伝えると、母は血相変えて電器屋に飛んでいきました。この時の母の反応を本当によく覚えています。野次馬のような感じではなく、家族が乗っていると言わんばかりの勢いでした。123便の行き先が最寄りの伊丹空港だったことも明らかになり電器屋のテレビの前にはどんどん人が増えていきました。

 時が経って社会人になりようやく当時の母の反応が理解できるようになりました。全国放送で取り上げられるような事故や災害は何かしら関わりがあります。関りが身内や知り合いの場合もあれば自社や取引先の場合もあります。正しく情報を得て適切な対応が必要となります。実際に多くの事故や災害を経験し、それらは社会で共有して助け合わなければいけないと思うようになりました。

 社会人になって以降、大きな地震や災害がありました。最近は異常気象による災害が増えているようです。海外ではテロや暴動もありました。新型コロナウィルスまん延ももはや災害です。8月12日を迎える度に母の反応が思い出され、事故や災害に正しく向き合うよう再認識させられます。