家業3

 小学生6年生からおよそ10年家業である果物屋を手伝いました。早いうちから大人の社会に触れる機会があり、いろんなことを感じることができました。今回は汚い大人につてい書きたいと思います。

 店番をしているとき50才くらいのおじさんが店先で商品のリンゴを品定めをしていました。当時はラップなどの包装はなくザルに4~5個盛って陳列していました。何気なくおじさんを見ていると時々ポロポロとリンゴを落としてはザルに戻していました。よく見ていると戻す際に他のザルのリンゴと入れ替えているのに気が付きました。何度か繰り返し自分の気に入ったリンゴをひとザルにまとめたらおじさんは涼しい顔して父にそれを渡しました。会計の最中おじさんと私は目が合いました。ずっと見ていたことに気付いたのでしょう、おじさんはニタ~と笑いました。その卑しい笑いはしばらく忘れられませんでした。

 別のお客さんのお宅に配達をした時のことです。これはもう少し年配のおじいさんでした。配達時に代金をもらうことになっており品物を渡してお金を受け取りました。しかし確認すると僅かに足りません。詳しい金額は覚えていませんが代金820円に対して800円しかもらわなかったイメージです。子供ながらに僅かという感覚でした。私は足りないと指摘しましたが「端数はまけとけと親父に言っとけ」との言葉と共にドアを閉められてしまいました。20円はサービスせよということです。その時は普段からこういう関係なのかなと思い、変に納得して店に戻りました。しかしそうではありませんでした。父にそのことを話すととても険しい顔で舌打ちし何か汚い言葉を発したように覚えています。それ以上に、見たことのない父の反応に驚いた記憶があります。私はそこで初めて自身が小僧だとなめられて追っ払われたことに気付きました。

 こんな話も今となって理解ができます。経営的にはリスクと呼んだりするのかも知れません。ビジネスにおいては騙された方が負け、押し切られた方が負けということです。きっと父もいろんなリスクは織り込み済みで店を営んでいたのだと思います。もちろんこれはビジネスの一側面でしかありませんが、私はこれらの経験から『結果は全て自分の責任』という感覚を身に付けたように思います。言い換えて『自分の力で望む結果が得られる』とポジティブ思考を持てたのはありがたい実体験でした。

郵便配達

 高校生の頃に郵便配達のアルバイトをしていました。担当したのは速達でした。郵便カバンに加え腰から下げるバッグに郵便物を入れて赤い自転車で担当地域を回りました。腰のバックには書留など特別なオプションがついていたものを入れていたと思います。速達は一般郵便より少ないため広範囲を担当することが多かったと思います。配達前に全ての住所を確認し、効率的に回るイメージを作りました。おかげで番地がどのような法則で付与されているのか身につきました。

 郵便物に鉛筆でほんの小さなメモを書くことがありました。私の場合は目標とする交差点や建物と配達先の位置です。地図ではなく一見して何かはわからない自分だけの暗号みたいなものです。これは家業の果物屋の配達で父から配達先を教わるイメージと非常に似ていました。お互いに頭にあるものは言葉にする必要はなく「ドンと当たって右の奥や」と聞いただけでどこの村のT字路でどうやって玄関に回るか伝わります。この要領で封筒の暗号は小さなTの字と横棒の右上に黒点を付けたような感じです。配達前の準備が成果に現れるのでこの準備は楽しかったです。

 当時の速達は全て手渡しだったと思います。一軒ずつベルを鳴らしたり、大きな屋敷の住人を探したりして面着していました。そうすると意識せずとも生活感や人間模様を感じ取ってしまいます。郵便物、配達人に対する反応も様々でした。もちろん口外することはできません。

 このアルバイトは高校の1、2年生の僅かな時間だけでしたがいろんな気付きがありました。細かな路地を通り、面着で郵便物を手渡すことで実にいろんな人がいて暮らしがあるのだと思い知らされました。大人になった今でも見ることのない光景もありました。知らないことがたくさんあるという前提は転機に直面しても少し冷静にいられるような気がします。

家業2

 家業の果物屋の手伝いに配達がありました。お客さんの中には大きな屋敷のある地主さんも多く、お盆前にはスイカやお供え物が特によく出ました。自転車の後ろに段ボール箱を括り付け、そこに商品を入れて運びました。時にはネットに入った大きなスイカを片手に下げ自転車の片手運転ということもありました。今だとおまわりさんに叱られますね。

 完熟したスイカは少しの衝撃でも割れることがあるそうです。包丁を入れた瞬間にパリンと割れていくあの感覚でしょうか。ある日完熟のスイカにあたったのか、配達中に割ってしまったことがあります。幸いお客さんに渡す寸前に気づいたので、新しいものを届けるように伝えて店に戻りました。何かと厳しい父でしたのでとても気が重い帰路でした。

 ところが父の対応は予想と全く違っていました。叱るでも不機嫌になるでもなくすぐに割ったものよりやや大玉なスイカを用意し、改めて私に配達を頼みました。拍子抜けした気持ちになりながらもお客さん第一な父の姿に感動を覚えました。叱られるかどうかを心配していた自分が恥ずかしかったです。

 しかし転んでもタダで起きないのもまた父でした。配達から戻ると割れたスイカは芸術的に破断面をそぎ落とし、幾つかのくし形切り(スマイルカットとも呼ぶそうです)となってラップをかけられ、早速店頭で売られていました。店裏にはおやつにちょうどいい大きさの破断面を含んだ端切れが残されており、父は涼しい顔してそれを一口かじると「おう、よく熟れとんな。思えも食えや」と言いました。

 お客様第一の美しさと儲けを追う貪欲さを同時に感じた一日でした。今となっては理解できますが、当時の私にはインパクトがありました。おかげで物事には表と裏があると知り、不幸なことがあってもポジティブに受け止められるようになったような気がします。

お小遣い

 私には毎月決まった金額を親からもらう『お小遣い』の記憶がありません。姉や妹がどうしていたかわかりませんが、それくらい興味がないものでした。何事もなく親からお金をもらうことに違和感や申し訳無さを感じていたのかも知れません。必要なものは揃えてもらっていましたし習い事やリトルリーグにも通わせてもらっていたので、それ以上のことには後ろめたさがあったのかも知れません。

 しかしながらお金をもらう機会がなかったわけではありません。家業の果物店を手伝った時にお駄賃としてもらうことがありました。当時の店先にはザルやボウルが天井からぶら下がっており売上や釣銭が入っていました。店仕舞いでそれらを店奥に引き上げ父に預けた際、たまにそこから数百円くれるのです。その中に新しく発行された500円玉が混じることがあり、珍しさを喜んだことを覚えています。稀に千円札をくれました。

 2~3時間の手伝いに対してなので決してアルバイト代並ではありません。家業なのでアルバイトとも思っていませんでした。それでもよく手伝っていたので買い食いや漫画を買うには十分でした。お金をもらうようになったのは中学に入った頃からだったように思います。今思えば万引きをしないようにと親が考えていたのかも知れません。全国的にみても中学生の非行が多い地域であったし、万引き現場を見たり捕まった友人の話を聞くこともありました。一言で『そんな時代』でもありました。

 家業手伝いが労働といえるかや金額の大小はともかく、仕事をしてこそお金をもらうという感覚が身についたのは私にとっては良かったと思います。おかげで大きなトラブルに巻き込まれなかったのかも知れません。お小遣いを通して非行防止や仕事の価値観を親が伝えようとしていたならアッパレです。感謝しかありません。

家業

 私の父はちょうど私が生まれた頃に脱サラ(サラリーマンを辞めて自ら事業を始めること)し、果物屋を始めました。30店舗ほどからなる公認市場の一区画でシャッター3枚くらいの店幅だったと思います。それから約20年、私が大学生の時期まで続けましたので私はほぼ『果物屋の倅(せがれ)』として育ちました。

 3人姉弟の一人息子だったこともあり小学6年時にリトルリーグを卒団した時から店を手伝うようになりました。店と自宅は別々の町にありました。夕方から店に向かい、配達や店仕舞いをするのが私の役目でした。お盆や年末の繁忙期には終日手伝うことも多かったです。今思うと青春期の一部を失ったようにも思いますが、当時はそれが当たり前と思っていましたし子供ながらに家の事情や両親の苦労を感じていたのかも知れません。

 店があったのは高度経済成長期に建てられた何十棟もの団地や社宅、アパート(文化住宅と呼ばれていました)に囲まれた地域であり、その周りにぽつぽつと地主さんの屋敷と敷地20坪ほどの建売住宅がありました。これらの住人がお客さんであり実に多様な人と暮らしがありました。善い人もいれば悪い人もいましたし、人情もあれば騙し騙されもありました。裕福や貧困も入り乱れ子供には刺激の強い環境でした。

 印象に残る作業のひとつに掃除があります。市場には魚屋・八百屋・パン屋・電器屋いろんな店がありましたがどの店も一日の終わりにはきれいに掃除を行い、ゴミが落ちていることはありませんでした。店仕舞いを手伝う私も毎日店の前を掃いていました。やはり基本なんでしょう。私は今でも掃除や整理整頓をするとひと仕事終えた気がします。

 私は家業の手伝いによって青春期の一部を失ったかも知れません。しかし、これらの体験を通して生きていくために有益な知恵や知識が得られ、少なからず間違いを減らし助かってきたような気がしています。

初めての仕事

 初めての仕事が何であったか思い返してみました。ここでは対価としてお金をいただいた仕事とします。それは小学校の高学年の時でした。アルバイトというカテゴリーだと思います。

 それは野球のスコアをつける仕事でした。当時私はリトルリーグに加入しており、チームの役員からある大会のスコアラーの依頼を受けました。スコアブックに記録を取りながらスコアボードの操作、ヒット・エラー・フィールダースチョイスの判定もしました。賃金は1試合500円だったように覚えています。その日は4試合あり2,000円と交通費に加え、昼食のお弁当とお茶をいただきました。また連盟の刺繍が入ったシャツもいただき優越感を得た記憶があります。

 場所は大阪城公園内の野球場でした。私鉄と国鉄を乗り継いで行きました。昭和55年5月5日のことであり、切符には5555と印字されていました。それが嬉しく降車駅の駅員さんにお願いして切符を回収されずにいただいたことは何より覚えています。

 思い出となる初めての仕事でしたが小学生にとって大金であった2,000円をどう使ったのかは全く覚えていません。切符がその後どうなったかも記憶にありません。それよりも一人で電車で出かけ、連盟のユニフォームを着て、公式にプレーを判定し、記録を残すというという状況や行為そのものに満足感や達成感を抱き記憶に残されているように思います。

 就職してからもこの記憶と同じような感覚になる時があります。通勤・制服・責任ある仕事に置き換えられるということでしょうか。対価としての給与があるために労働しているのですが、実は活動全体に惹かれているのかも知れません。こういうことを働き甲斐というのでしょうかね。

就活

 ちょうど30年前の今頃、工学部の4年生だった私は就職活動を始めていました。バブル経済崩壊後ではありましたがまだ名残があり、特に理系の学生とっては強い売り手市場が続いていました。活動といっても学科には学生数の何倍もの求人が届いており、学生達はその社名リストから希望の会社を選ぶのが一般的でした。リストには多くの有名企業が並び、工学系ではない会社もたくさんありました。会社を選択すると後に面接の案内があり、学校推薦として面接を受けて採用というプロセスでした。

 今のようなエントリーシートはもちろんなく、インターンシップもありませんでした。私の場合、技術面接と人事面接の2度の面接だけのシンプルなプロセスでした。私は面接に向けてたいした準備もせず当日もグズグズ、それでも合格しました。たぶん『出席=合格』ほどの売り手市場だったのだと思います。私は経験しませんでしたが学生を他社に奪われないように拘束旅行を催す会社もあるほどでした。今とは全く異なる状況です。

 就活という切り口だけで考えた時、このような就活環境を経て入社した人達と昨今の激烈なセレクションを勝ち抜いてきた人達が同じモチベーションで同じゴールを目指せるのか考えることがあります。能力の優劣という話ではなく何かギャップを感じます。会社内ではよく一丸となるべくスローガンが発せられますが、そもそも土台となる会社や仕事に対するメンタリティが極めて異なる気がします。

 就活は受験のように当事者でない時代のことはよく理解されていないように感じます。少し気にしてみるとそのぶんだけ理解し合えるのではないでしょうか。