退職

 私はこれまでに2度の退職を経験しました。いずれの退職もエネルギーが必要とされとても疲れました。私の場合は努めて1日も無職の状態を作りませんでしたが結果的に正解でした。次に向かうモチベーションがなけれ途中でイヤになったかも知れません。

 1度目の退職は大学卒業後28年1か月勤めた会社でした。幸運にも重要なポストをいただいていたので当然ながら担当役員の抵抗に会いました。円満退社とは言わないまでも私の思いを理解してもらおうとタフな面談を繰り返し退職願受理に1か月ほど時間を要しました。それでも理解は得られなかったように思います。私自身が未熟ったのか最後は引き延ばしされてるようにしか思えませんでした。最終出社日を迎えた時は本当に安堵しました。

 2度目の退職は1年5か月弱の在籍の後でした。コロナ禍に加え元来テレワーク状態で世界中の拠点と仕事をしている外資系企業でしたので帰属意識や人との繋がりは希薄でした。退職意思に対しても強い抵抗もなく、本人の意思を尊重するスタンスでした。採用コストという視点からは採用は失敗だったのだと思いますが、日常的なことのような受け止め方で補填の活動が開始されたと思います。正味2週間の引継ぎをして終わりです。2度目の退職はとても簡単でした。

 ところが退社後は転職ではなく独立起業でしたのでいろんな手続きを個人でやる必要がありました。社会保険や医療保険、年金などが挙げられます。もちろん並行して開業の準備もありました。サラリーマンであれば会社の指示通り手続きすることに何の疑問も持ちませんでしたが、独立後は全て自己責任なので否応なく自分で調べて何を選択すべきか考えるようになります。人事のサポート、保険料や年金の会社負担など日本のサラリーマンは恵まれていると痛感しました。

 

起業

 この度起業しました。退職の手続きや起業の準備に忙しく長らく投稿が滞っていましたが、再開しますのでまたよろしくお願いします。

 さて起業といっても最近はいろんな形があり、副業として起業することもカジュアルになってきたようです。私の場合はサラリーマンを辞めて、個人事業主として事業を営むことになります。昔は脱サラとも呼ばれていましたが、脱サラは私の父の場合のように果物店などの小売業や飲食店を経営するイメージがありました。私はこれまでの経験を生かしてコンサルティングを行いますので独立起業というイメージでしょうか。

 起業にあたってファイナンシャルプランナー資格取得の勉強もしましたので、自分が加入している社会保険制度や年金制度を詳しく知ることになりました。そこで初めて自分や家族がどれほど保護されていたか気づくことになりました。雇用保険もその一つです。幸い大きな事故や病気をすることもありませんでしたが、失って初めてありがたみがわかります。また年金・健康保険の会社負担分も大変ありがたいものです。

 とはいうものの開業届も提出し、新しい人生がスタートしました。コンサルティングというと澄ましたイメージがありますが、どちらかというと自分の知識や経験、ネットワーク期待する方がいれば大いにお手伝いしたいとの思いです。それをセカンドキャリアとしていきたいと思います。

8月12日

 36年前の今日、日本航空123便墜落事故が起きました。私は家業の果物屋の手伝いと強く結びついて記憶しています。事故を知ったのは果物の配達をした帰りでした。商店街の入り口に電器屋があり、店頭のテレビで速報が流れていました。御巣鷹の尾根に墜落したのが18時56分30秒とのことですので19時過ぎてもまだ配達していたということです。お盆前の繁忙期なので朝から手伝っていましたが、日が暮れてもまだ数件の配達が残っていました。その後も電器屋前を通る度に更新される映像に足を止めていました。

 私は初め事故の重大さにあまりピンときていませんでした。未熟だったのでしょう。店に戻って母に「飛行機が落ちたらしいよ」と軽く伝えると、母は血相変えて電器屋に飛んでいきました。この時の母の反応を本当によく覚えています。野次馬のような感じではなく、家族が乗っていると言わんばかりの勢いでした。123便の行き先が最寄りの伊丹空港だったことも明らかになり電器屋のテレビの前にはどんどん人が増えていきました。

 時が経って社会人になりようやく当時の母の反応が理解できるようになりました。全国放送で取り上げられるような事故や災害は何かしら関わりがあります。関りが身内や知り合いの場合もあれば自社や取引先の場合もあります。正しく情報を得て適切な対応が必要となります。実際に多くの事故や災害を経験し、それらは社会で共有して助け合わなければいけないと思うようになりました。

 社会人になって以降、大きな地震や災害がありました。最近は異常気象による災害が増えているようです。海外ではテロや暴動もありました。新型コロナウィルスまん延ももはや災害です。8月12日を迎える度に母の反応が思い出され、事故や災害に正しく向き合うよう再認識させられます。

家業2

 家業の果物屋の手伝いに配達がありました。お客さんの中には大きな屋敷のある地主さんも多く、お盆前にはスイカやお供え物が特によく出ました。自転車の後ろに段ボール箱を括り付け、そこに商品を入れて運びました。時にはネットに入った大きなスイカを片手に下げ自転車の片手運転ということもありました。今だとおまわりさんに叱られますね。

 完熟したスイカは少しの衝撃でも割れることがあるそうです。包丁を入れた瞬間にパリンと割れていくあの感覚でしょうか。ある日完熟のスイカにあたったのか、配達中に割ってしまったことがあります。幸いお客さんに渡す寸前に気づいたので、新しいものを届けるように伝えて店に戻りました。何かと厳しい父でしたのでとても気が重い帰路でした。

 ところが父の対応は予想と全く違っていました。叱るでも不機嫌になるでもなくすぐに割ったものよりやや大玉なスイカを用意し、改めて私に配達を頼みました。拍子抜けした気持ちになりながらもお客さん第一な父の姿に感動を覚えました。叱られるかどうかを心配していた自分が恥ずかしかったです。

 しかし転んでもタダで起きないのもまた父でした。配達から戻ると割れたスイカは芸術的に破断面をそぎ落とし、幾つかのくし形切り(スマイルカットとも呼ぶそうです)となってラップをかけられ、早速店頭で売られていました。店裏にはおやつにちょうどいい大きさの破断面を含んだ端切れが残されており、父は涼しい顔してそれを一口かじると「おう、よく熟れとんな。思えも食えや」と言いました。

 お客様第一の美しさと儲けを追う貪欲さを同時に感じた一日でした。今となっては理解できますが、当時の私にはインパクトがありました。おかげで物事には表と裏があると知り、不幸なことがあってもポジティブに受け止められるようになったような気がします。

裁量労働制

 先日、裁量労働制の実態の記事を見ました。適用されていない労働者より1日の平均労働時間が約20分、週平均でも2時間以上上回ったそうで、制度が必ずしも長時間労働の抑制につながっていないという内容でした。

 私もかつて裁量労働制で働いていました。私の勤め先では全ての従業員が対象ではなく、創造的業務に携わるいわゆる係長クラスの従業員に導入されていました。確か制度適用と共に月25時間ほどのみなし残業手当が支給されていたと思います。導入当時、私は年齢的にも役割的にもプロジェクトの中心であり、エンジニアとしても充実していました。今思えばワーカーホリックだったかも知れませんが、仕事が楽しく納得いくまでやりたい思いが強かったのでこの制度はとてもありがたい制度と捉えていました。実際に深夜や休日なども気にせず働いていました。また日々や月毎の残業管理の煩わしさからの解放感もありました。

 しかし制度は長く続きませんでした。正確な理由はわかりませんが、みなし残業時間より長い時間外労働の実態が原因のひとつだったと思います。記事にあるような超過レベルを遥かに超える部署もありました。また現実問題として自身の裁量で業務が進められる環境でない場合が多かったのかも知れません。

 制度が実態に合わず終了したのは残念でしたし、私自身の働き方が家族や周りに悪影響があったかも知れません。しかしながら、この時期に思う存分働けたことは私にとってはとても有意義でした。エンジニアとしての成長もありましたし、後のキャリアにも生かされました。時代にあわせて働き方や制度は変化していきます。より多くの人が成長し会社が発展するよう期待したいです。また上手に活用することも心掛けていきたいです。

耕不尽

 このブログの名前です。『耕不尽』という言葉そのものは固定ページの方で説明しているのでご参照ください。ブログ名にするくらいなので管理人の私が強い経験の中から得られたものだと思われるかも知れません。しかしこれは全く突然に私の中に入ってきたものなのです。

 私は社会人2年目に結婚しました。90年代前半のことです。当時の典型的な結婚式で仲人は会社の上司、参列者は双方から40人位、場所はホテルでした。仲人・主賓の挨拶、乾杯、お色直し・キャンドルサービス・ケーキカットと続き、友人からのメッセージ・余興を終えいよいよ締めとなる新郎新婦・両家代表の挨拶となりました。私は未熟であったので定型の極めてシンプルなものが精一杯でしたが父は違っていました。もともとスピーチ好きなのでしょう、言葉使いは感謝でいっぱいでしたが、いよいよワシの出番とばかりに練りに練った挨拶を展開しました。この中に『耕不尽』が出てくるのです。

 若い二人をどうぞ見守っていただきたいというくだりで「我が家の床の間に『耕不尽』とありまして若い二人にも・・・」と出てきました。私は『???』です。20年近く暮らした家の中にそんなものが掛かっていたのを全く知りませんでした。後に実家に帰り確認すると確かにそれはありました。色紙のようなものに書かれ額に入っていました。達筆でまた『尽』も旧字体の『盡』でしたので読めずに気に留めなかったのだと思います。

 私は少々ずぼらなところがあると自覚しているので、その戒めとして座右の銘のようなものを尋ねられた時は『継続は力なり』のようにコツコツ努力を続けるような名言を返していました。しかし実はこんなに近くに『継続して努力し、そしてそれは尽きることがない』という言葉があったのです。遅ればせながらも気付きから四半世紀が過ぎました。これからも大切にして、人生を振り返った時に「あの言葉は自分を支えてくれたな」と思えると嬉しいです。

お小遣い

 私には毎月決まった金額を親からもらう『お小遣い』の記憶がありません。姉や妹がどうしていたかわかりませんが、それくらい興味がないものでした。何事もなく親からお金をもらうことに違和感や申し訳無さを感じていたのかも知れません。必要なものは揃えてもらっていましたし習い事やリトルリーグにも通わせてもらっていたので、それ以上のことには後ろめたさがあったのかも知れません。

 しかしながらお金をもらう機会がなかったわけではありません。家業の果物店を手伝った時にお駄賃としてもらうことがありました。当時の店先にはザルやボウルが天井からぶら下がっており売上や釣銭が入っていました。店仕舞いでそれらを店奥に引き上げ父に預けた際、たまにそこから数百円くれるのです。その中に新しく発行された500円玉が混じることがあり、珍しさを喜んだことを覚えています。稀に千円札をくれました。

 2~3時間の手伝いに対してなので決してアルバイト代並ではありません。家業なのでアルバイトとも思っていませんでした。それでもよく手伝っていたので買い食いや漫画を買うには十分でした。お金をもらうようになったのは中学に入った頃からだったように思います。今思えば万引きをしないようにと親が考えていたのかも知れません。全国的にみても中学生の非行が多い地域であったし、万引き現場を見たり捕まった友人の話を聞くこともありました。一言で『そんな時代』でもありました。

 家業手伝いが労働といえるかや金額の大小はともかく、仕事をしてこそお金をもらうという感覚が身についたのは私にとっては良かったと思います。おかげで大きなトラブルに巻き込まれなかったのかも知れません。お小遣いを通して非行防止や仕事の価値観を親が伝えようとしていたならアッパレです。感謝しかありません。

ほうれんそう

 会社生活でよく聞かれる『ほうれんそう』、もちろん野菜のことではなく『報告』『連絡』『相談』初めの一文字ずつ取って作られた造語です。特に上司とのコミュニケーションに有効な方法として用いられてきました。起源を辿ると1982年に作られ発明者もはっきりしているようです。最近ではかなり古い言葉になりつつあり、あまり真剣なシーンでは使われていないかも知れません。さて、この『ほうれんそう』ですがみなさんはどのように感じているでしょうか?

 部下の立場では自身の業務進捗や成果を正しく理解してもらえタイムリーに指導や助言をもらえるメリットがあります。もっと進んで自信をアピールする絶好の機会と考えてる人もいます。一方、「資料や時間調整がめんどくさい」「そんな時間があるなら仕事をしたい」と思うこともあるでしょう。中にはコミュニケーションそのものがとても苦手で強いストレスを感じている人もいます。

 上司の立場では部下の業務進捗をダイジェストで入手でき、方向修正が必要な場合にもロスが少なくて済むメリットがあります。また偏りなく部下との時間が持てることはとても貴重です。美しくまとめられ、凝ったアニメーションや動画・ウェブサイトにピョンピョン飛ぶPowerPointがお気に入りな上司もいれば、真っ先に端的な結論を求める人もいるでしょう。ここぞとばかりに高圧的になりパワハラを犯してしまう場合もあります。

 本来双方にとってメリットがあるのですがデメリットを敏感に捉えがちで徐々に苦痛に感じる傾向にあるのではないでしょうか。また完全に意気投合してしまっては何か見落としがあるかも知れません。私の場合、若い頃は面倒くさいと考えることが多かったです。それでも必要性は感じていたので、ありもの資料を活用しタイムリーであることを心掛けて行っていました。向き合い方によってはもっと成長できたようにも思います。報告を受ける側になるとさらにメリットとデメリットがはっきりわかるようになってきました。お互いの成長のためと思って是非上手に使っていきたいものです。

家業

 私の父はちょうど私が生まれた頃に脱サラ(サラリーマンを辞めて自ら事業を始めること)し、果物屋を始めました。30店舗ほどからなる公認市場の一区画でシャッター3枚くらいの店幅だったと思います。それから約20年、私が大学生の時期まで続けましたので私はほぼ『果物屋の倅(せがれ)』として育ちました。

 3人姉弟の一人息子だったこともあり小学6年時にリトルリーグを卒団した時から店を手伝うようになりました。店と自宅は別々の町にありました。夕方から店に向かい、配達や店仕舞いをするのが私の役目でした。お盆や年末の繁忙期には終日手伝うことも多かったです。今思うと青春期の一部を失ったようにも思いますが、当時はそれが当たり前と思っていましたし子供ながらに家の事情や両親の苦労を感じていたのかも知れません。

 店があったのは高度経済成長期に建てられた何十棟もの団地や社宅、アパート(文化住宅と呼ばれていました)に囲まれた地域であり、その周りにぽつぽつと地主さんの屋敷と敷地20坪ほどの建売住宅がありました。これらの住人がお客さんであり実に多様な人と暮らしがありました。善い人もいれば悪い人もいましたし、人情もあれば騙し騙されもありました。裕福や貧困も入り乱れ子供には刺激の強い環境でした。

 印象に残る作業のひとつに掃除があります。市場には魚屋・八百屋・パン屋・電器屋いろんな店がありましたがどの店も一日の終わりにはきれいに掃除を行い、ゴミが落ちていることはありませんでした。店仕舞いを手伝う私も毎日店の前を掃いていました。やはり基本なんでしょう。私は今でも掃除や整理整頓をするとひと仕事終えた気がします。

 私は家業の手伝いによって青春期の一部を失ったかも知れません。しかし、これらの体験を通して生きていくために有益な知恵や知識が得られ、少なからず間違いを減らし助かってきたような気がしています。

ジョブ型雇用

 最近よく目にするワードです。業務内容を定義して雇用するスタイルで専門性を求められることが多いようです。ジョブ型雇用と対比して使われるのがメンバーシップ型雇用となります。私は典型的なメンバーシップ型雇用のもとで28年間の会社生活を過ごしてきました。そして昨年外資系企業にジョブ型雇用として転職しました。

 採用選考の過程において提示されるオファーレターには業務内容がしっかり書かれており、入社後も合意なしに変更されることは原則ありません。またオファーレターにある労働条件や処遇についても勝手に変更されることは原則ありません。良くも悪くも「やることやっていればお金がもらえる」わけです。

 欧州に本社を持つグローバルカンパニーであり、日本現地法人でありながらも日常的に海外数か国・国内数拠点と仕事をしているのでウェブミーティングをしても参加者の居場所はほとんど別々です。また社内はグローバルで統一されたシステム・規定で運営されているため、企業活動はまさに個々のジョブの集合体といったイメージになっています。

 とても合理的で会社も「やることさえやってくれればいい」と言っているように感じます。意欲的に働きたい人にもそうでない人にも納得感のある働き方のように感じます。日本ではこれまで馴染みがなかっただけで、コロナ禍もひとつのきっかけとなって今後加速して拡がっていくのではないかと思います。